
今日は日本画の話。
写真の作品は長日本画という作品です。
文字通り長〜い日本画です。それ以上の意味はありません。
2003年に「転位する日本画」なるシンポジウムも開かれ、2004年には練馬美術館で「超」日本画宣言なる展覧会が開かれましたね。「超」日本画宣言の副題は−それは、かつて日本画と呼ばれていた−だったかな。そうそうたる作家の作品を見ることが出来てとても感銘を受けたことを覚えています。
1989年北澤憲昭氏によって境界の美術史―「美術」形成史ノートが出版され、日本画の自明性に疑問符を投げかけられてから後、日本画の日本画たるゆえんへの視線が注がれることが多くなり、日本画が日本という国の名前を冠していて、なおかつその出自が屈折しているがために格好の議論の的になってきました。
そのためにか日本画にはよく滅亡とか、最近は復活という言葉がつけられ、日本画滅亡論とか日本画復活論といっては展覧会が開かれています。
このような動きに一石を投じるつもりはもうないのですが、日本画を殺したり、生き返らせたりしながら忙しい分野ですね。その営為によって日本画を戦略的に使っているように思えます。
そのような営為によって想定される日本画って、とてもラディカルなように見せようとしつつも、実は日本画というものを実体化しているように見えます。新しい日本画と言ったとたん、それまでの日本画を限定し、実体化して考えているわけですから・・・。僕もそのように実体化していたので良く分かります。疑問を持って反発しようとすればするほど、その痕跡が残ってしまうのはそのためです。
そもそも制作者としては日本画だからと制作するのではなく、対象に出会い、描くための素材に出会い、描き、事後的に日本画として扱われるべきですね。それはモノの自明性を認めず、新たな目で見つめていこうとする姿勢です。その営為によって日本画は変質していくと思います。
そういえば椎名林檎の「この世の限り」という歌がありますね。
作詞作曲:椎名林檎
この世に限りはあるの
もしも果てが見えたなら
どうやって笑おうか
愉しもうか
もうやりつくしたね
じゃあ 何度だって忘れよう
そしてまた新しく出逢えれば素晴らしい
然様なら
初めまして
〜